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「ヒューマンバイオロジー学位プログラム」とは?

永田 恭介



本稿では、文部科学省が支援する博士課程教育リーディングプログラムの生命健康領域(複合領域型)に平成23年度に採択された筑波大学の 「ヒューマンバイオロジー学位プログラム」の概要について述べます。日本応用数理学会の会員の方々にとって最もご興味があるのは、このプログラムと数理学の関わりだと思われます。生命科学者の視点から、現在の生命科学が置かれている状況を踏まえて、生命科学の分野への数理科学の参入の可能性と期待について述べさせていただきます。

 

ヒューマンバイオロジー

医学ならびに医科学は、ヒトの生理と病理について研究し、ヒトの疾患の予防・診断・治療方法の向上を目指すものです。一方、ヒトを生物の一つの種として他の種と相対化し、進化の時間軸と地球環境や人類の様々な活動の中で捉える生物学、すなわちヒトの分子から環境の中におけるヒト個体・集団までを対象として、ヒトを生物の一種として相対化するヒューマンバイオロジー(ヒトの生物学)が始まっています。

生物学はいまでは分子生物学という潮流となっています。分子生物学とは、生命現象を分子レベルで理解しようという生物学であり、生命現象を支える生命反応に関わる分子の働きを分子の構造から理解しようという(構造生物学)学問と古典遺伝学が源泉です。その後、遺伝子=DNAであることが証明され、DNAの二重らせんモデルが提唱され、「DNA makes RNA makes Protein」というセントラルドグマが実証され、生命現象を支える分子とは遺伝子(情報)であり、そこにコードされるタンパク質(機能構造)であるということが自明となりました。つまり、遺伝子(情報)を扱う学問(遺伝学、分子遺伝学)とタンパク質の(機能)構造を扱う学問(構造生物学)が同じ土俵で議論できるようになってきました。

このような背景から、「ゲノム情報がすべて解読され、それぞれの遺伝子からどのようにDNA makes RNA makes Proteinが起こり、制御されているのかが理解できれば、生命の謎は解ける」という主張がなされ、さらにその後のゲノムプロジェクト、およびポストゲノムプロジェクト研究の進展により、実際にこれを試すことが可能な段階にまで来ました。

ヒトの生物学においても、方向性は同じです。たとえば、ヒトの誕生、進化、種としての維持などを考える際にも同様です。「どの遺伝子がどのように進化し、どの遺伝子が生存に必須です」などについて、ヒトの代わりにネズミなどを用いて実験的にアプローチし、その結果をヒトに外挿して考察をします(問題点)。「この遺伝子が変異(進化のモーティブフォース)したので、あなたはガンになりました」とか「この遺伝子は多くの方の遺伝子とは少し異なっているので、あなたは環境の影響を受け易いのです」という説明は、科学的であっても、本人や家族にとっては大問題です。一旦生を受けたヒトにとっては、いかにして健康を維持するか、どうすれば病気にならないか、あるいは病気になったとしてもどうすれば健常に戻れるのか、といったことが重要な課題です(問題点)。さらに、化学物質、放射線などを含めた環境の中で、ヒトは恒常性を維持し、病気になることから逃れなければなりません。2002年の環境サミットで、工業化学物質などすべての化学物質(食品、化粧品、農薬、医薬などを含む)によるヒトの健康への影響を2020年までに最小化するということが合意されています。この点は創薬業界や拡大する健康美容食品市場において、特に改革が求められている点です。一方、化粧品開発においては欧州新規制に基づいて動物実験ができなくなってきています。国際的指針に基づいたヒト試験の前にいきなりヒトで検査を行うこともできません(問題点)。

 

分子生物学と数理科学

前節に(問題点)と指摘した問題は、科学あるいは科学技術の推進のためであってもヒトでは実験ができないのは明白であり、動物実験が可能であったとしても、その結果のヒトへの適用方法が確定していないということです。加えて、出現してからの500万年とも言われるヒトの歴史のみならず地球生命体を、わずか 200年に満たない時間でヒトが作った環境、たとえば本来ヒトを救うための薬を含めてヒトがヒトの福祉のために考えて創成した化学物質などが壊そうとしているという問題です。ヒトという種の恒常性維持、あるいは健康を求める立場から考えると、いかに予測・予防し、診断し、治療するかということが重要になります。

一方、分子生物学がゲノム・ポストゲノム時代に突入し、これまでの生物学がその将来像を見直すことが必要であるといった議論が湧いてきています。すでに 2009年に、米国 The National AcademyのNational Research Councilからは、「A New Biology for the 21st Century」提言書の中で、今後の生物学は古典的(?)な分子生物学に数学、物理学、化学、工学、計算科学を取り込み、新たな研究コミュニティーを創成する必要があると述べています。このような状況は、特にシステムズ生物学の世界では、「Biology is in the midst of a revolution」という概念で捉えられてきています。実際、ゲノムプロジェクトの成果とオミックス解析などを含むポストゲノムプロジェクトの研究技術革新は、細胞内で動く個々の遺伝子の様態と機能をダイナミックに定量化することを可能にしました。たとえば、生命の適応と進化の研究が、バクテリア(原核細胞)を用いた生命科学研究に数理科学の手法を交えて、新たな展開を向かえています。すなわち、「遺伝子発現(DNA makes RNA makes Protein)の偶発性」が生命の環境適応と進化の過程で重要な役割を果たす可能性について議論されていますが、そこでは偶発的な変動の総和がノイズという言葉で表されています。遺伝的に同一の集団であっても個々の細胞では遺伝子発現量の集積値は異なることのほうが多いのは当然です。低い閾値と大きな偏差を持った遺伝子発現系は適応型ではありますが個の保存性には欠けます。一方で、高い閾値と小さな偏差ではその逆となります。

ヒューマンバイオロジーでは、ヒトを含めた真核細胞生命体の生命の適応と進化の研究(理学的研究)が重要であり、そのためには実験科学と数理科学の協力が求められます。加えてヒトを救うための研究(工学的研究)についても同様な協業が切実です。言葉を変えると、予測・予防し、診断し、治療するために数理科学の活用が求められているということです。予防においては各種の疾患を発病の前(未病状態)に発見すること、治療においては未病状態からの対応や介入治療、および発症後であれば疾病を制御するための治療が最重要課題です。

診断に基づいた予防研究では、バイオインフォマティクスが主体となります。まずオミックス研究(全ゲノム関連解析、プロテオーム 解析、メタボローム解析など)、コホート研究、疫学研究などの研究成果を統合し、疾患の遺伝素因と環境因子を明らかにし、同定された遺伝子産物に対する特異的かつ効果的な医薬分子を開発することで、未病患者を治療する先制医療が可能となります。ただし、多くの疾患では、複数以上の因子が、疾患の重篤度によってそれぞれの関わり方(定量的な意味でも、定性的な意味でも)も異なって関与しており、インフォマティクスと実験の協業が大切です。

一方、治療の重要な手段の一つは創薬です。創薬プロセスでは、臨床試験に入る前の段階(探索研究−前臨床試験)に限っても、数理科学の参入が必須な部分が多くなってきました。探索研究−前臨床試験は、創薬ニーズに従って、①創薬ニーズに合わせたアッセイ系の構築、②ハイスループットスクリーニング、あるいは創薬ターゲットの構造情報に基づいた分子動力学計算による創薬候補化合物の探索、③候補化合物を基盤とした計算科学、有機化学、創薬テストの共同による化合物の最適化、④医薬分子候補化合物の体内動態(薬効、毒性、代謝動態など)、といった順序で開発研究が進みます。このあと、ヒトを対象とした「臨床試験」に繋がります。

 

バーチャルヒトシステム

上記の探索研究−前臨床試験プロ セスにおいて、モデル動物を使用した安全性試験、毒性試験、薬物体内動態、薬効・薬理試験などの前臨床試験の効率化が求められています。また、モデル動物前臨床試験の信頼性の向上が求められています。

我々のプログラムでは、 生命科学と数理科学の具体的な協業の目標を設定しました。前臨床試験におけるモデル動物を用いて得られたデータを臨床試験で対象となるヒトへと外挿できる 手法の一つとして、基礎生命科学・医科学の研究成果を基盤として、臨床、疫学、コホートなどや実験の膨大なデータを統合し、生命活動をin silicoに再現できるシミュレーターの構築を大きな目標として掲げました。ヒトとモデル動物の精密な細胞モデルの構築からモデル動物個体モデルの構築に進み、次いでモデル動物細胞での実験結果をヒト細胞に外挿することが可能なシステムの構築へと繋げます。このシステムは、当然ながら疾患を制御できる医薬候補化合物について、モデル動物におけるデータを基盤にヒト体内での動態シミュレーションに適用でき、創薬プロセスを加速することができます(薬効予測)。さらに、このシステムは健康の維持に関わる生体分子と生命維持回路の同定にも寄与するはずです(健康維持解析)。さらに重要なことは、生体分子・生命回路の異常によって誘引される疾患の予測や、先に述べた未病の発見にも適用可能となるはずです(疾患予測)。

 

おわりに

一般的な意味でのヒューマンバイオロジーと我々のヒューマンバイオロジー学位プログラムの持つ意味は異なります。後者は、あくまで大学院の教育に関わるプ ログラムですから、プログラムなりの人材育成目的があり、それに沿った学生の将来のキャリアパスがあります(詳細は、ホームページをご参照ください。 http://hbp.tsukuba.ac.jp/)。重要なポイントは、このようなプログラムを駆動するためには異分野の協業が必須だということです。我々のプログラムは、生命科学、医学、農学はもとより、数学、化学、計算科学、情報工学などの教員によって支えられています。我々は単に教育プログラムではなく学位プログラムを意識して組織しました。ヒューマンバイオロジー学位プログラムも、バーチャルヒトシステム構築に向けた研究教育も、始まったばかりです。多くの方々との議論が必要だと考えていますし、興味を持たれた方々との共同研究などもすすめたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。



ながた きょうすけ
筑波大学 医学医療系
[Article: D1212A]
(Published Date: 2013/05/20)