上山 大信
本書の編者であり著者の一人でもある三村昌泰氏は「はじめに」の中で、「現象の数理的解明をミッションにする数理科学を「現象数理学」と名付け」と書いておられる。この一文を読んですぐに思い出したのは、日本評論社から数学セミナー増刊として1981年に出版された「数値解析と非線型現象」という書籍の第6章として収録されている山口昌哉氏を中心とした対談であった。30年以上前の書籍であるが、私が現象数理学の精神を違和感なく受け入れることができるのは、大学院学生時代にこの対談内容を何度も読み返した経験からだろう。山口氏、三村氏、藤井氏、宇敷氏の四者による対談のテーマは「数値解析の現状と問題点」であるが、藤井氏が対談の流れの中で現象の数学、現象学という言葉を使っておられる。山口氏もそれをうけて現象を理解しようとする本能が数学や応用数学を発展させたと思うと述べられている。またモデリングの重要性や何のためにモデルを作るのかも議論されており、三村氏は現象を理解するためのモデルに加えて、数学の新たな発展、理論構築に繋がるという視点を述べている。これらの論点は、まさに「現象数理学」のテーマであって、現代においてこの対談内容が再認識・再評価されたとも言えるのかもしれない。
では、本書で紹介されるトピックスをざっと見てみよう。序章は現象数理学への誘いとして、反応拡散系に見られるパターン形成の基礎に関してまとまった解説がなされている。パターン形成に関する現象数理学に興味がある方には良いテキストとなるだろう。第1章では粘菌の知性が扱われる。単純な生物である粘菌が迷路を解く現象の観察から、粘菌が数式としてモデリングされる。注意したいのは、モデリングというプロセスが一本道では無い事である。モデルはその導出の途中で何度となく修正され、そのプロセス自体も現象を理解する現象数理学の一部である。迷路はグラフとして表現され、粘菌の管のネットワークが水道管のネットワークとして微分方程式を用いて表現される。このようなモデリングは自明な事では無いのだが、現象の理解に向けた現象数理学において秀逸なモデリングである。導出されたモデルの解析は、粘菌が如何にして迷路を解くのか明快に示してくれる。第2章ではアリの集団が扱われ、役割分化やアリの行列の形成に関してモデリングとモデルの解析から考察が行われる。ここでは微分方程式モデルに加えて確率的モデル、セル粒子モデルが目的に応じて使われる。現象の理解がミッションであって、手段あっての目的では無く、理解したい現象に最適な手段が用いられる。第3章では身近な社会問題でもある渋滞が扱われる。自動車の渋滞のみならず、アリの渋滞などその適応範囲は広い。ここでもセルオートマトンモデルと微分方程式モデルが併用され、現象数理学として渋滞現象がどのように理解されるのか楽しめる内容だ。第4章は脳の現象数理というタイトルで、神経行動学、ニューロン、ニューラルネットワークと脳の異なる階層の数理モデルが紹介される。脳という巨大な複雑システムを、階層的視点からの数理モデリングとその解析を用いて理解する試みである。第5章はパンデミックがテーマである。SEIRモデルの紹介と、モデルを実際に計算する際のアルゴリズムの紹介、実際の感染動向とモデルとの比較がなされており、大変参考になる。第6章では経済の現象数理学である。現在の金融市場での取引はコンピュータネットワークを介したものであり、その取引状況全てが情報として手に入る時代にあって、ミクロな視点からマクロな現象であるバブル現象が説明できる事が順を追って解説される。
このように、本書の内容は多岐にわたり、現象数理学のひろがりを実感することができる為、数学の応用に興味を持つ若手研究者には最適な入門書であろう。入門というが、それぞれの内容は最先端の研究に基づくものであり、各章の著者も世界的に活躍されている一流の研究者である。参考文献リストも充実しており、数理系の大学院学生であれば直ぐにでも「現象数理学」の研究をスタートできるだろう。
うえやま だいしん
明治大学 総合数理学部
[Article: J1312A]
(Published Date: 2014/09/13)