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書評

Hisashi Inaba 「Age-Structured Population Dynamics in Demography and Epidemiology」 (Springer, 2017)

國谷 紀良



2020年、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受けて、私たち応用数理の関係者にとっては馴染みの深い「数理モデル」がニュースや報道番組などを通じて広く一般に紹介されることとなった。アウトリーチの観点からすれば、それは私たち関係者と社会の双方にとって喜ばしいことと考えられるが、政策決定に影響をおよぼすモデルの妥当性や信憑性について、インターネットを中心に多くの議論や批判が巻き起こることになった。誰もが意見を気軽に発信できる時代において、社会との繋がりをもつ応用数理の専門家に求められる役割は、研究成果をわかりやすく伝え、誤った情報を正し、時には大衆の批判に晒される必要があるという点で、従来とは異なる種類の難しさを含むものに変化しつつあると感じられる。真偽が明らかでない膨大な情報の氾濫に戸惑うとき、厳密な論理で構成される数学は心強さを感じさせてくれるものであるということを、私はこのたび本書を読むことで知った。

 

本書は、2017年に刊行された、著者のキャリアの集大成ともいうべき一冊である。Chapter 1~4 では人口の数理モデル、Chapter 5~8 では感染症の数理モデルが扱われている。感染症の流行は、感染という特別な状態にある人口の変化と解釈できるため、人口のモデルは感染症のモデルの根本に位置するものと考えることができる。本書では、両分野に登場する豊富なモデルの具体例と、その解析のための積分方程式、半群、安定性などの理論が精緻な数学の言語によって展開されている。特に、同分野の重要文献が余すところなく引用されており、人口の幾何学的成長の法則からはじまる理論の発展の歴史を追うことができる。

 

各章の概要を以下に記述する。Chapter 1 では、安定人口モデルと呼ばれる線形の偏微分方程式が紹介され、本書全体の数理解析において中心的な役割を果たすロトカの積分方程式が導出されている。そして、人口が漸近的には初期値によらずにマルサス法則にしたがって増加あるいは減少することを意味する人口学の基本定理の証明が与えられている。Chapter 2 では、線形理論の拡張として多状態のモデルや非自律系のモデルが考察されている。Chapter 3 では、非線形への拡張として密度依存の効果を含むモデルが考察されている。Chapter 4 では、数理人口学の分野において困難な問題とされる、男女両性によるペア形成のモデルが考察されている。Chapter 5 では、感染症のモデルの基本的な事項が記載されている。特に、Kermack and McKendrick による有名なSIRモデルや、ウイルスのモデル、媒介生物感染症のモデルなどが紹介され、疫学的指標として有名な基本再生産数 Ro の閾値原理(Ro > 1 ならば感染症が流行し、Ro < 1 ならば流行しない)に関する解析が行われている。Chapter 6 では、安定人口モデルの拡張と見なすことができる、年齢構造化SIRモデルが考察されており、Ro の閾値原理の証明と未解決問題への言及が行われている。Chapter 7 では、長い潜伏期間中に感染性が変化する点で特徴的なHIV感染症に焦点を当て、その特徴を捉えるための年齢・感染齢構造化モデルや、体内での細胞のHIV感染のモデルが考察されている。Chapter 8 では、再感染に関する数理モデルに焦点を当て、有名なSIRモデルとは異なる Kermack and McKendrick の初期のモデルや、免疫のブースター効果を考慮した Aron のモデルなど、他の書物では中々見られない希少なモデルが考察されている。Chapter 9 では、人口と感染症の両分野に共通して重要な役割を担う基本再生産数 Ro の理論が紹介されている。Ro は感染症の初期侵入時における流行の強さを表す指標であり、コロナ禍ではリアルタイムにおける指標である実効再生産数 Rt をニュース等で耳にされた方が多いかも知れない。応用に関する節では、隔離やワクチン接種などの介入行為を計画する上での Ro の重要性を、タイプ別再生産数の概念とともに学ぶことができる。Ro の数学的定義としては、1990年に Diekmann らによって与えられた「次世代作用素のスペクトル半径」が一般的であるが、著者は世代推進作用素(generation evolution operator; GEO)の理論を提唱し、漸近的な世代間の成長率とマルサス径数との関係によって、より生物学的に自然に解釈できる Ro の定義を与えた。この定義により、季節の影響などを考慮できる周期系を含めて Ro を統合的に扱うことが可能となった。Chapter 10 では、本書を読む上で必要となる数学上の道具として、半群、正作用素、積分方程式の理論などが紹介されている。

 

本書は洋書であり、和書を求める方には同著者による「数理人口学(東京大学出版会,2002年)」をおすすめしたい。冒頭に記載があるが、本書はもともと当該和書の英訳として出版される予定であったとのことである。同分野の近年の理論の発展はめざましく、本書は新しい結果を含めることでより充実した形となっている。コロナ禍を通じて、感染症の数理モデルに関しては多くの課題や問題点が明らかになったといえるが、それらと向き合い、発展を継続していくことは、小生を含む同分野の研究者に課せられた今後の課題であると考えられる。困難が予想される道中において、迷い躓く機会があるたびに読み返したいと思わせる一冊である。



くにや としかず
神戸大学大学院システム情報学研究科
[Article: J2010A]
(Published Date: 2021/02/02)