JSIAM Online Magazine


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学会ノート

加古先生と私たち

山本 野人



加古先生との思い出を綴ってほしい、とのご依頼を受けました。ご経歴、ご研究については他の方が執筆されるとのことですので、ここでは個人的なエピソードを中心にして、電気通信大学で加古先生と特別に親しくしていた数名の方々からお聞きした内容を含めて記そうと思います。

1.加古先生と私

私は加古先生からご縁を頂き、1999年4月に九州大学から電気通信大学へ赴任しました。当時の電通大は、牛島先生・加古先生をはじめとする数値解析の大家が並び立ち、新任助教授にとっては緊張感がありました。
赴任の翌年の夏のことです。お盆で妻の実家がある九州へ向かい法事を営んでいました。その時にお参りに来た親戚の方との会話です。
「お前は電通大というところにいるそうだな」
「はい、電気通信大学に奉職しております」
「加古孝という酒飲みの男を知っておるか?」
「はい、それはもう大変お世話になっております」
「あの男は私の義理の甥である」
「ええええええ!」
この方に家系図を描いてもらって、帰京してから加古先生にお見せしました。
「ええええええ!じゃあ僕と山本君は親戚なの?」
「はあ、そういうことになっております」
「こういうこともあるんだなあ。そう言えば牛島家も元は九州だったよね」
「あ、それは恐れ多いので調査は控えたいと存じます」
その後、飲みに誘われる回数が増えたことは言うまでもありません。

2.加古先生とスキー

電通大に赴任した年度の終わり頃に、当時おそらく学科長を務めていらした加古先生を慰労するために「加古さんをスキーに連れてって」を標語とする「山は白銀計画」(略称 ヤマシロ計画 英文表記Project Y.)が発足しました。記念すべき第一回は神楽・三俣スキー場、参加者は加古先生のほか、安藤清教授、吉岡助手、私の四名。お宿は三俣温泉「弥八」でした。雪に埋もれそうな古宿で前日に遅くまで飲みまくり、二日酔いで起きてこない加古先生のスキーを安藤先生がワックス掛けしていたことが印象深い。
翌年から村松正和助教授(現電気通信大教授)が加わり、加古・安藤・村松・山本がコアメンバーとなって、毎年ゲストメンバーを迎えながら2012年の加古先生ご退職を挟み、2018年まで続きました。もっとも多く訪れたのは苗場・田代・神楽・三俣のゲレンデユニオンで、常宿は「貝掛温泉」。深夜まで飲んでは喋り、二日酔いと闘いながら滑るハードだけれども楽しいスキー行でした。上級者の村松さんの見解によれば、加古先生のスキーは紳士のスキーでした。姿勢が良く、速く降りられる場所を選んでスイスイ行くイメージ。かつてラガーマンだった安藤先生のパワフルに斜面を制覇する滑りとあいまって、ショートスキーでフラフラ滑る私にとっては追随するのがやっとでした。飲み会では、酔っ払った村松さんがふっかける議論を、それ以上にベロベロに酔いながらも局所的に正確な論理でいなしていく加古先生が見事でした。
2019年に、他のグループとの合同スキー合宿を企画しました。このときももちろん加古先生をお誘いしたところ、「ドクターストップがかかってね」とおっしゃって参加されませんでした。私たちは「どうせ飲み過ぎ」とタカをくくっていたのですが、このときにはすでにご病気が進行していてスキーどころではなかったようです。このことはご逝去の後で知りました。ヤマシロ計画がなくなってからは、味気ない冬を過ごしています。

3.加古先生と運転

以下は安藤清先生のご回想です。
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加古さんの運転する車には何度も乗せていただきました。彼は車の運転は好きで、運転技術にもかなりの自信を持っていて、実際ハンドリングなど上手でした。平地での運転はスピードの出し過ぎもなく、無理な追い越しや割り込みも行わず快適な乗り心地なのですが、葛折りの急な登り坂では様子が変わることがありました。

加古さんや私の属していた電気通信大の親睦会では、当時は年に一度一泊の旅行をしていました。奥日光への旅行の時、加古さんは私と事務室の少し高齢の女性を乗せて宿に向かいました。途中、長い葛折りの登り坂にかかると、あまり速度を落とすことなく、タイヤが鳴ることも厭わずカーブを通過していくのでかなりの加速度が加わり、カーブから飛び出すのではないかと同乗の女性は小さな悲鳴をあげました。乗り心地は必ずしも快適とは言えませんでしたが、私は結構楽しめました。加古さんは運転しながら、クラッチ操作やハンドリングなどについての技術的解説をしゃべり続け、決して車線からはみ出すことなく安全走行していることを強調していました。長い登り坂が終わったところで加古さんが
「これまでの記録には届かなかったがまあまあのタイムだった」
と言っていたことと、宿についてから同乗の方が
「少し怖かった」
と言ったのを覚えています。
今度は加古さんが私の車に乗った話です。
2011年3月11日東日本大震災の当日、加古さんも私も大学にいました。加古さんは当時、学部長・研究科長の職にあり、震災に際しての大学の対応に大きな役割りを果たさなければなりませんでした。特に翌日12日に予定されていた入学試験については緊急にその対応方を決定する必要がありました。
当日、夕方日暮れ前に、加古さんから私に「会議が長引きそうだから待機していて欲しい」との連絡がありました。幸い、私は家族や研究室スタッフ、学科関係者の無事の確認ができていたので(学科所属の全学生の安全確認にはあと数日を要したのですが)、加古さんを待っていました。
夕刻かなり遅くなって、会議を終えた加古さんを車に乗せて府中の彼のマンション目指して大学を出発しました。普段ならば、国道20号線(甲州街道)を通って20分程の道のりですが、学内の建物から観た甲州街道は多くの車がゆっくりと動いています(後でわかったことですが、その時点で甲州街道は府中市の東端で大渋滞していて通過に数時間を要したということです)。そこで、甲州街道を避けて、北に少し離れてほぼ並行に走る人見街道を行くことにしました。
人見街道は車の数はさほど多くはありませんでしたが、街路灯も消えていて、ところどころの信号機が動作せず、どの車も非常にゆっくりと交差点を通過せざるを得ませんでした。そして、小金井街道などの南北に走る幹線道路に近づくと大きな渋滞が発生していて、どれほどの時間がかかるか予測ができません。そこで、加古さんがナヴィゲータの地図画面を見ながら脇道(本当に住宅街を抜ける細い道)を指示し始めました。そのおかげで、大きな渋滞をどうにか避けながら府中の彼のマンションに到着することができました。この時、渋滞に到達する直前に脇道を指示するいわば動物の嗅覚のようなものを加古さんが持っていたと思います。実際、彼からの指示が無くなった途端、私は渋滞に捕まり、普段ならば10分程度でたどり着ける我が家まで1時間を超える時間を要してしまいました。

4.加古先生とお酒

これは何からお話しすれば良いか途方に暮れるほどのエピソードがあります。それらを列挙すると「追悼特集」の趣旨を大幅に逸脱することは明らかですので、少しだけご紹介しましょう。
私が電気通信大学に赴任した折の歓迎会で、牛島先生が「加古先生は divergence 無限大だから」と仰ったときは何のことか理解できませんでした。そのすぐ後に、加古先生生に調布駅近くの怪しいお店に連れて行かれました。安藤清先生もご一緒でした。そこでかなり飲んで、さあ帰ろうとなったときに加古先生が動きません。安藤先生が「加古さん、ほらもうこんな時間だよ。終電無くなっちゃうよ」と急かしても、色々な理屈をこね始めて帰ろうとしない。駅近くですので電車の発着の音が聞こえ、安藤先生は焦ります。私の頭の中では「なごり雪」のメロディが流れています。
♫ クダを巻く君の横で僕は、時計を気にしてる…
この替え歌は全曲完成して披露したのですが、現在歌詞が行方不明なのが惜しまれます。
加古先生は学生たちともよく飲みに行っていました。学部長を務めていらしたときにも、私が主催する学生たちとの飲み会「大秋刀魚パーティ」に「学部長視察」と称して参加し、一番酔っ払って学生に支えてもらいつつのお帰りでした。埼玉大時代には、入学式のオリエンテーションのときに「誘われた飲み会は絶対断らない.」とおっしゃっていたと、当時新入生だった小山大介さんからお聞きしています。
加古先生が電気通信大をご退職の後、村松さんと共同研究を開始して2年ほど本学まで通ってらっしゃいました。共同研究の日は参加者全員で食事をし、蕎麦屋や調布パルコの中華などによく行ったとのことです。村松さんの証言によれば「そこで飲んだあと、鬼太郎印のパン屋かホットケーキなどを出す喫茶店に行き、甘いものを食べるのが定石でした」。甘いものもお好きだったのですねえ。世に言う「両刀使い」ですな。

5 加古先生と私たち

1994年夏に電通大で行われた第2回日中数値数学セミナーでは,加古先生は実行委員のお一人でした。そのFarewell Partyでのご発言の際に
「この実行委員の職を通して,誠心誠意相手に向き合えば,それは必ず相手に伝わることを学んだ」
とおっしゃり、込み上げてしまい涙を流されていた、と参加者だった小山さんからお聞きしました。このようなときには相当な神経を使って務めていらしたことが伺えます。
加古先生がご還暦を迎えた折に、記念の研究集会を催そうと言うことになりました(2007年9月24日から28日)。幹事は私だったのですが、実質的には加古先生御自ら主催され、海外からの講演者も多数招聘してたいへん盛んな会となりました。最終日の Excursion は隅田川の屋台舟で、大都会に昇る満月を見ながら外人のカラオケに聴き入る、これもまた印象的なものでした。この会を運営するにあたって、加古先生は「僕のことを出汁にして、若い人たちが海外の知人を作る機会にしたい」とおっしゃっていました。この言葉は今も胸に残っています。
前述の村松さんとの共同研究は内容的には関数解析の勉強が主体で、これも参加者の若いエンジニアの人達に知見を広げてもらいたいと言う思いがあったとお聞きしました。
加古先生から多大な恩を受けている私たちですが、その中でも「人との繋がりの大切さ」を教わってきたなあとしみじみと感じています。
最後に、学生時代から加古先生に接してこられた電気通信大・小山大介さんのお言葉で本稿を終わりたいと存じます。
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加古先生の最終講義(2012年2月27日)の内容は、ご自身の研究成果よりも先生がこれまで関わった人たちの紹介でした。加古先生は、何より人を大事にする先生だったと思います。そして、人を大事にするためにいつも笑顔で過ごされていたのだと思います。いつもニコニコしていても、時には自分を抑えてストレスを感じることもあったと思います。それで、お酒の量が増えたりお身体に負担をかけてしまったこともあったのだと感じています。
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本稿は、電気通信大名誉教授・安藤清氏、電気通信大学・村松正和氏、電気通信大学・小山大介氏の皆さまのご協力のもとで執筆致しました。厚く御礼申し上げます。

 



やまもと のびと
電気通信大学大学院 情報理工学研究科
[Article: K2103E]
(Published Date: 2021/06/09)